昭和四十八年八月五日 御理解代三十四節


 「此処へ参っても神の云う通りにする者は少ない。皆帰ってから自分の好い様にするのでおかげはなし。神の云う事は道に落として仕舞い、我が勝手にして神を恨む様な者がある。神の一言は千両の金にも代えられぬ。有難く受けて帰れば土産は船にも車にも積めぬ程の神徳がある。心の内を改めることが第一なり。
 神に一心とは迷いのない事ぞ。」


 心の中を改めることが第一と心得さして頂いての信心。信心第一と。信心の道の入ったら、先ずああ今までの生き方は間違って居ったと気付かせて貰う。
 心の中を改めることが第一、此処が第一、同時に神に一心とは迷いの無いことぞと、改まって一心に願う。改まって願う。これは人間同志の場合であっても、一つの事をお願いする、それを簡単にお願いしますと云う事もあるけれども、事重大と云う事を人に頼みに行く場合には、それこそ改まってまたお願いに出ますとか、改まってお願いに出るでしょう。
 信心もそうです。心の中を改めることが第一。改めて改めて一心にお縋りをする。しかも迷いの無いことと仰る。あれこれと迷わずに一心に縋る。この改めることにより一心に縋ることに依って、私は船にも車にも積めぬ程の神徳があると仰せられる。神徳が受けて行けれる。改まって一心に縋るところからです、教えが有難いもの、教えがいよいよ血になり肉になりするのです。
 此処んところをなら初めから、此処へ参っても神の云う通りにする者が少ない。只お参りしよるだけだから、そして自分が願うこと、お願いする事だけだから、改まることも一心になることも致しません。これではおかげにならん。信心がいわゆる血に肉になって行かない。
 神の一言は千両の金にも代え難い程しの事を教えて下さるのであるから、だからそれを頂き止める為にです、頂き止めるために信心は先ず心の中を改めること。そして改まって一心に縋ると云う事。改まって一心に縋るそこからです、いわばあんたがそげん頼もうごとあるならば、私も一肌脱ごうかと、例えば人間の場合そうでしょう。まあ、どうと思いよったけど、改まってお願いにこらっしゃった。だからこれはじっとして居られない。なら一層脱がじゃことと云う事に成って來る。
 改まって一心に願う。そこからですね、改まって一心に縋るのですから、御教えと云うか神の云う事と云うか、その一言一言がです、血に肉になって行く。いわゆる教えが有難いと頂いて帰る様になる。教えが有難いと頂いて帰れたときには、もうそれは信心が血肉に成って居る時です。そういう有難く頂いて帰らせて頂くその積み重ねがです、船にも車にも積めぬ程の内容のある御神徳と云う事になる。 もう本気で改まる。そして一心に願う。これはね、改まって一心に願うと云う信心が出来ますとね、もうお話はどういうお話を頂いてもおかげになるです。お話が上手とか素晴らしい話じゃったと云う事じゃないです。もうこれは不思議です。どんなに素晴らしい話を頂きましてもです、改まることもしなければ一心を出さなかったらね、有難い話が有難くないです、それでは。
 有難く頂いて帰ればと仰る。船にも車にも積めぬ程の神徳がある。只自分の思うとる自分の願いで頭がいっぱい、これでは更なものが生まれてこない。私共は心の内を改めること。しかも日々の改まりと云う事を仰るが、日々改まって行くところから生き生きとした新たな、云うなら心が生まれて來るのです。
 その日々新たな心が一心に縋る、不思議に改まって一心に縋って居るときには、それこそどういう、云うならばお話の中からでも此処が頂きどころぞという神の一言と云う事が心に入って來る。はあここだと云うものが心にぴしっと頂けて來る。
 此処で神の云う通りにする者が少ない、皆帰ってから自分の好い様にするのでおかげはなしと仰せられるところのおかげはなしとは、御神徳と云うおかげはなしと云う事です。
 只参ってもお話は有難く無かってもお取次を頂いてお願いをして居れば願いが成就すると云う事は、おかげはなしと仰るけれども、おかげは受けておるのです、みんな。
 けれども此処で教えて居られるのは最後のところから推察さして頂いとるところから云うとです、これは御神徳と云うおかげはなしと云う事です。自分の好いようにするから、それで随分参ったけれども、おかげにならじゃったと云う様な考えの方は、いわばこれは神を恨むようなもんだと私は思います。
 神の一言は千両の・・・・・例えばね、お話を頂いておる中に一言でも私は頂いて帰る、一言でも心の中に頂いて有難いと頂いて帰られる。
 今朝方から私お夢を頂いた。面白いお夢であった。偉い素晴らしい大きなホテルを経営している。そのホテルを経営しておるのに、丁度あの映画に出て來る名前は何と云うか知らんけど、いつも悪役ばっかりする人が二、三人その人達がやって来た。そして一部屋貸してくれとこう云う。部屋を一部屋そして決して自分達の部屋に来てドアーを開けてくれるなと、ドアども開けると大事になるぞと云う様な凄味利かせてから云っとるわけです。もう云わずと知れた部屋を借りてそこでバクチかなんか打とうと云う腹らしいです。又それ以上の悪い企みもあろうような感じもするわけです。ところが私がそれを非常に苦にしとるわけです。
 それがその苦にしておてからですね、まあこげな大きな商売を経営しとるけれども、こういう難儀なことがあって、ひょっとこれが警察どもばれてころちゃったらどういう事になるか分からんからくーっとして自殺しようと私が思いよるところです。そして心に中ではひとつもそうでないですけども、結局これは、ははあ御理解と思うた。夢の中でも思いよるとです。それで睡眠薬をがぶっと一握り口の中にいれて、ははあこれは三粒飲んだら死ぬと云うのにこげん飲むなら間違いなく死ぬじゃろうと云うたり思うたりしよると、そこへ家内が入ってきてから、家内はそれを本気で思うておるから、貴方が死ぬなら私も死のうと云うてからその薬をやっぱり一握り握って飲むとです。そしてそれをまあ結局これは御理解だと。その後にまた続いて頂いたのが、私共が長屋住まいをしておる。私が何処かへ行って帰ってから、お母さん今帰ったぞと云うて帰って入り口に大きな瓶が置いてあってそれに大きな鰤と大きな鯉とが泳いどる。そこで大変難儀な状態にあるけれども、お母さん今帰ったぞと云うその言葉がもうこれ以上仲の良い言い方はないだろうと云う言い方をして、私も言うとる。家内もああお帰りなさい、お疲れでしたと言うとる具合い。そういうお夢であった。そして私は色々考えさして頂いたんですけどね。
 本当に私共がぶりぶりする様なおかげ、ね、ぶりと云うのは鯉と云うのは素晴らしい大きな徳と云う。私共がもういよいよまあ、長屋住まいでもしておったと云うか、一番難儀な時分に私共はぶりぶりする様なおかげやら徳やらを受けとったんだなと云うことであった、思うた。そして次々思うたのは、その前に頂いとる幾ら誰が何と云うても、なら私が自殺をするからそんなら私もと一緒に死んで呉れるのは家内だけしかいないのだと。
 そんならその時分夫婦仲良うしとった様な、仲良さと云うものがです、今の私共にあるだろうか。決してお粗末にしておらなかったり大事にしておらない訳ではない。あの一番苦しかった時分にあのおかげの元を頂いて、おかげをこうやって頂いて参りましたら、果して家内もその時分の様に大事にしておるだろうか。大事に仕合うておるだろうか。例えば家庭に不和のなきが元とこう云う様な御教えを頂くと云うことはです、只仲がよいと云うだけでなくて、信心で云う仲良うと云うことは拝み合うと云うことだと。只家庭が円満であればおかげが頂かれるかと云うと、只円満だけでおかげ頂くのじゃない。ことっともいわんからおかげを頂くのじゃない。
 お道で云うところの仲良うと云うのは拝み合うと云うこと。お母さん今帰ったぞと、お帰んなさいとその時のその雰囲気と云うものはもう、拝み合うておる感じである。そういおかげを頂いてきてそして段々おかげを頂いて大きな、例えばホテルを経営してそういう事が起こって私がその事柄にくっとして自殺でも仕様と、これは映画俳優のいつも悪人ばかりになる人を使ってあると云うのは、はあこれはお芝居だなと御理解だなと私はお夢の中で感じとるのですね。けども家内はそれをお芝居とは思うていない。私は本当に死ぬものだと、だからなら貴方が死ぬなら私も一緒に死のうと、私のために死んで呉ると云うのは家内以外にはない程しの家内です。今私はどの位に大事にしておるかと、大事にしておることは仲良うしとる事ですけども、なら信心で云う拝み合うとるかどうかと云うことなんです。本当に家内に感謝しておる。感謝の印をどう表しておるかと云うことである。
 私は丁度二時半でしたから、だから起こさせて頂いた。昨日は一寸やすませて頂く前にお客さんがあっとりましたから、あそこにお茶やらお茶菓子を出しとったのをいっぱいこうあのしてあったから早速起きてから、今日は私は晩にし瓶を使いますから、いつも家内が綺麗に洗ってくれる。今日は家内を少しでも大事にせにゃいかんと思ってし瓶も早く起きたから綺麗に洗わせて貰うたり、片付けも全部自分でさして頂いて、そして本当に家内の寝姿を拝ませて頂く思いで今朝からおかげを頂いた。これはもっともっと家内を大事にせねばいけないなと、それはこっとりとも云わんとか、只大事にすると云うてどうと云うて撫でたりさすったりするころだけでなくて、本当に家内を拝められる様にもちっとこっちの信心を高めなければいけないなと、その手だてとまあ申しましょうか、手だてとしてです、先ずはこれは家内がすることだと、後片付けをしたり下の物を洗ったりすることは、もう家内がする筈のごと思うとる。と云う様なことではなくて、それはしても貰いましょうけれども、やはり時間があったなら自分が洗いもせなければならん。自分が片付けをせねばならん。それは形の上に大事にすることでしょうけれども、心の上で大事にするということは、家内を拝みきると云うことである。
 信心は家庭に不和の無きが元と、五つの願いの第一に上げてお願いさせて頂いておるがです、家庭に不和が無いと云うことは、只色々責め合うたり、喧嘩したりすることが無ければ良いと云うことではなくてです、拝み合うて行く。夫婦が、親子が拝み合うて行くことがおかげ、そういう例えば教えの一つでも本当に守って行じておるだろうかと云うことです。
 今日は皆さんここんところをね、心に内を改めて一心に縋る。そして今日の御理解の中からです、ならそれこそ私共が心の中を和ぎ賀ぶ心でおかげを頂いて、家庭円満にと云うことはどれ程聞いたやら分からん。仲良うしておりますと云うだけじゃなくて、もう一つです、私は今日夢の中で、私が死ぬなら死んで呉るのは家内しか居らん。何十年前の苦労の一番のときにも、私が修行が出来たのは家内のおかげである。その時分に、なら現在おかげを頂いて居る、ぶりぶりする様なおかげとか、お徳を頂いとるとするなら、その時分に頂いとるのである。
 家内と私が本当に拝み合える時に頂いておるのである。
 段々それが散漫になって、成程喧嘩口論こそしません、責め合うことこそしません。誰が見ても仲良い夫婦に違いはないけれども、拝み合うておると云うことはもう限りがない事である。
 相手を拝んでおると云うことはそういう意味で私はもっともっと家内を大事にせねばならないと云うことを、私はお夢の中から気付かせて頂いて、改めて皆さんもです先ず家内が拝めておるか、主人が拝めておるか、子供が親が拝めておるか、その拝めていないと云うことはです、日頃教えを頂いている教えを守らずに時分勝手な程度のところで信心を片付けて居ることでありますから、それでは神の一言は千両の金にも替えられない程しの御神徳がこもっておってもその御神徳を受ける事は出来ない。
 先ずは改めること。そして一心に縋る。そこからいよいよ御教えがです、どういう話の中からでも神の一言として頂ける程しの生き生きとした新たな信心が出来る。
 心の内を改めることが第一、改まって一心に縋る。今日は改まって一心に縋るところをです、どうぞ私は家内をもっともっと大事にさして下さい、拝めれる私にならして下さいと云うところを一心に縋っておかげを頂いて行かねばならない。 
 皆さんもそれぞれのところでです、そこんところを稽古なさったらおかげになると思うですね。 どうぞ。